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大学生活と僕と鬱

初めまして今回エッセイを書かせていただく、くりたけと申します。

今回お話しする内容は僕の人生の転機についてです。
みなさまは、人生の転機となったことはありますか?
それが明るい事である方もおられれば、その逆の方もおられる事でしょう。
僕の場合は“その逆”の暗い事、あまり人におおっぴらには話したくないことが人生の転機となりました。
その経緯を僕が大学に入った5年前から振り返っていきたいと思います。

1.大学入学

先ほども話した通り、僕が大学に入学したのは5年前の2017年です。
地方の大学に入学したため下宿をすることになりました。

当時僕は大学がどんな場所かもわからず、
ただ一人暮らしをして自由に暮らす事ができるのだのだと思っていました。

しかし、1〜2週間がたったころ、自分の生活能力の無さに驚きました。
掃除、洗濯、皿洗い、ゴミ捨て…このような家事全般を全て後回しにしてしまい、
さながらゴミ屋敷のようになってしまったのです。
それを見かねた親が時々下宿にきて片付けをしてくれるようになりました。
今思うと申し訳ないことをしたなぁと思います。

ただ、問題はそれだけではありませんでした。

2.大学生活とトラブル

僕が大学に入って1、2ヶ月経ったころ、あることに気が付きました。
授業のペースについて行けていないのです。
板書をノートに書き写していると、
気がついたら先生が次の話をされていて説明を聞き逃してしまったり、
宿題を出されても後回しにしてしまったりしていました。
そもそも宿題を出されたことを忘れてしまっていたりもしたので、先生からみれば困った生徒だったと思います。

提出期限が過ぎた宿題は点数にならないので、どんどんやる気が落ちていってしまいました。
そして、復習しない、点数も減る、次の内容も分からなくなる、
という悪循環にハマっていきました。

これは、「やりたくない」という僕の甘えもあったと思います。
しかし、どうしても宿題を忘れてしまうことや、授業について行けない、
宿題に異常に時間がかかる等の事柄は自分でも原因が分からず、とても悩みました。

のちに発達検査を受けて分かったことなのですが、
自分は処理速度だけが異常に遅く、他の能力との凹凸が激しいため、
発達障害の可能性があるとのことでした。

3.大事件

事件は2回生の夏に起こりました。
順調に単位を落としていた僕は、今思うとかなり追い詰められていました。
「留年したら人生が終わる」とまで考えてしまっていました。
「この単位 “フランス語” だけは取らなければならない。取れなければ生きる価値がない。死んでやる。」
とまで思い詰めていました。

しかし、試験2週間前から勉強すべきところを完全に試験日程を忘れてしまい、
1週間前から始めたり、試験前日に徹夜で勉強したりしてしまいました。
そんなことでは実力が出せるわけがありません。そんな状況を自分で作り上げてしまいました。
試験本番になると、頭が真っ白になり2割しか回答を埋められず、単位は絶望定期になりました。

そこで、ふとこんな考えが頭をよぎりました。
「お前の価値は無くなったから死んでしまえ。みんなそう望んでいる。」
その時は正常な判断が出来なくなっていて、私はその通りだと思ってしましました。
のちに分かった事なのですが、これは鬱のなり始めの症状でした。

家に帰ると、まず自殺の方法を考えました。
この頃になると、部屋がいつにも増して汚くなっていて、
両親からの電話も無視するようになっていました。
夜になって、荷造り用のロープを持って外に行き大学の堀で首と柵に縄をかけました。
堀の縁に立つと正直怖くなって足がすくみました。
“あっ”と思ったのも束の間足を滑らせ首吊りの体制に入りました。
特に痛みは感じず、意識が消えていきました。
気づくと堀の中で溺れていました。
縄が切れて助かったのです。
立ち上がってから状況を理解すると全てがどうでもよくなり、警察に電話して事情を説明しました。

初めて警察のお世話になった瞬間でした。

4.自分のプライドと鬱と

自分が自殺未遂を犯した後、病院に担ぎ込まれ、両親にも連絡がいきました。
父は出会って一番、笑顔で「大丈夫だ」と慰めてくれました。
後で聞いたところでは、この時父はとても自分のことを責めていたのだそうです。
周りの人たちにもとても心配と迷惑をかけたと思います。

病院に入院し終わると、夏休みになりました。
幸い後遺症もなく、いつもと変わらず明るく過ごせました。
しかし、夏休みが終わると別の地獄が待っていました。
学校にいけなくなってしまったのです。
登校しようとしても体がついていきませんでした。

行っていない事がばれないように学食だけでも行こうとするのですが、
食堂も居心地が悪く、知っている先生などを見つけると、
逃げ出したくなる衝動に駆られ食事の味もわからなくなりました。

「学校には行っている」と両親には嘘をつきました。
家で何も出来ない、もしくは深夜に起きてゲーム友達と喋るだけ、
食事は一日一食の日々が二年間続きました。

自分がうまく行っていないことを話すだけの度胸もありませんでしたし、
何より自分のプライドがそれを許しませんでした。

5.新しい道

そんな生活が2年続いたある日、両親が家に来てちゃんと学校に行っているかの視察にきました。
一度外に出て時間を潰して、行ったふりをして帰ってこようと思ったのですがこの時ようやく決心がつきました。

母に学校に行けていないことを告白しました。
帰ってきた反応は意外なものでした。
両親は既に知っていて、自分が言い出すタイミングを待っていたのです。
というよりもある程度予想がついていたようでした。
そこから両親と相談し下宿を引き払い、この先の進路などを話し合いました。
その時初めて大学に障害学生支援室なるものがあることを知りました。

6.リベンジ!

自殺を企図した後、担ぎ込まれた病院で発達障害や精神疾患に関する検査を受けました。
両親から聞いたことなのですが、自分は幼少の頃A D H D傾向があったらしく
小学校、中学校では配慮をもらっていたそうなのです。
検査結果はその傾向が残っている可能性があるとのことでした。

障害学生支援室に初めて行った時、服用している薬や過去の事を話すと、
支援室の職員さんは大学から配慮を受けられる可能性が高い事を教えてくれました。

そこからはとんとん拍子に話が進みました。
配慮を受けられることになり、
宿題の提出期限の延長やわからないことがあれば職員さんがついてきてくださり、
一緒に質問してくれるなど様々な事をしていただきました。

そこから半年が経ち、自分は一つ壁を乗り越えました。
フランス語の単位を取る事ができたのです。
正直にいうと、これで大学に心残りは無くなりました。
大学を卒業するのは正直厳しいと考えていた頃でした。

その時、職員さんからある施設を紹介されました。
「エンカレッジ」という発達障害の支援に特化した就労移行支援施設です。
見学などを通してエンカレッジに入所することになり、現在に至ります。
現在はそこで社会人としての基本を学んでいます。

今振り返ると、あの時の自分はかなり視野が狭く、
勉強のことしか頭にない状態だったのだろうと思います。
人間という生き物は、型にはまった考え方しかできなくなると非常に生きづらくなります。
僕の体験はその最たる例に今は思えます。

視野、見識が以前よりも格段に広がった今は、以前より楽な気持ちで毎日を生きる事ができています。
心を楽にするには、心を開いて視野を広げる事が重要だと学びました。

これで僕の経験談を終えようと思います。
長文でしたが読んでいただきありがとうございました。

Profile
くりたけ
ライター

2021年10月滋賀県立大学中退。
現在、就労移行支援エンカレッジ より就業体験中。

Profile
運営者/編集者/ライター at 株式会社みのりの森

株式会社みのりの森 代表取締役
NPO法人Reframe 代表理事
凸凹じぶんなび とことこ 製作者/運営者/編集長/ライター
発達障がい専門誌きらり。 発行者/編集長/ライター
発達障害(ASD/ADHD)当事者
双極性障害当事者
発達障害の支援を中心に、会社を経営。
NPOでは不登校、発達障害、HSPなどの生きづらさを抱えた子どもと若者の居場所づくりをしている。

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