子どもたちとのあいだにみつけた、きらきらしたケアの本質
こんにちは。はじめまして。
山口県の田舎に住んでいる、藤村純子と申します。看護師をしています。
私が住んでいるところは、とても空気がおいしくて、自宅は田んぼと畑があるので、おいしいお米や野菜を食べることができます。
私は、京都が大好きで、何度も行っています。着物も好き。お抹茶も好き。
趣味は、お祭りが好き、フラメンコをしていて、スペイン人の先生(セビージャのジプシー)に習っています。
今回、エッセイを書いてみようと思ったきっかけなのですが、
療育施設のこどもたちとの関わりを通して、
看護の原点、ケアの本質を触れることができる喜び、
人とかかわることのケアの大切な気づき、見落とされそうな小さくて大切な気付きの中にケアのヒントがみつかる
(私は、たからもの、宝石をみつける気分になります)
ことについて表現したいと思ったためです。
現代の社会においては、効率、スピードが優先される傾向にある中・・・
そのような中でもやっぱり本当に大切なことは、
ゆっくり、丁寧に相手の思いに寄り添うことではないのかなとこどもたちと過ごしていると実感するのです。
はじめに
看護は、生を与えられて死にいたる人間を対象に、その人が成長できるように、
また、その人が持っている力が発揮できるように支えることです。
看護師は相手の進む方向に沿って援助を行い、その人の反応から援助になったかどうかを学んでいくのです。
大切なことは、相手を敬い信頼しあう人間と人間の心の触れ合う関わりだと考えます。
私は、2021年3月から療育施設である「とことこ」に勤務しています。
日々こどもたちの成長の小さな芽(きざし)があって、
きらきらと光っているこどもたちの一生懸命な表現に毎日触れることができます。
これらを大切に支えることは、まさにケアの本質だと感じます。
療育施設「とことこ」について
山陽小野田子ども発達支援センター“とことこ”は、
1~6歳までの発達支援を必要としている子どもたちで、
利用定員は30人余りで構成されています。
出生時より、先天性疾患(ダウン症候群、遺伝子疾患、早産児など)の子どもの成長過程を病院や健診を通じて、
保育園、幼稚園を通じて成長発達の遅れ(身体的な発達、身体的な発達、言葉の遅れなど)がみられる際に、
療育支援の提案がされます。
そして、1歳半健診、3歳半健診で成長発達の遅れ(言葉の遅れ、多動、自閉、癇癪など)がある場合に、
保健師を通じて相談があり、障害福祉課を通じて受給者証の交付を受けて、
とことこ(療育施設)の利用につながることになります。
この施設では、
施設長、児童発達管理責任者、児童指導員、保育士、管理栄養士、調理士、介護福祉士、公認心理士、作業療法士、言語聴覚士、看護師、送迎者のドライバー、事務職員など、
各職種24人で構成されていて、子どもたちからは、「せんせい」と呼ばれていました。
「とことこ」に魅力を感じて
私は、以前大学病院周産母子医療センターのGCU(GrowingCareUnit)に勤務していたことがあります。
病院で出生した新生児が成長し、その後の成長発達を見守る施設が自宅近くにあることに関心をもっていました。
「とことこ」で働き始めて、まず私の耳に聞こえてきたのは、
子どもたちに対して、「ゆっくりでいいのよ、自分の居場所をつくろうね」
と、話しかけている先生方の声でした。
その姿に私は感謝の気持ちしかありませんでした。
子どもたちの方に目を向けると、
彼らはそれぞれ、その時、その場、その状況で、どんどん成長して変化していて、
子どもたちの「いのち」と直接触れることができ、足浴、清拭、口腔ケアを毎日させてもらえました。
皮膚はコミュニケーション、排泄器官であったりします。
足浴や清拭をすることで、子どもにリラックスの感覚を体験して貰えたらという思いで行っています。
皮膚と皮膚の触れ合いでコミュニケーションにもなるのです。
足浴をすると、その後、落ち着いてお話を聞いて貰えたりという効果もあります。
わたしは、ケアをさせて貰えることを誇りに思いました。
仕事のやりがいにつながっていました。
口腔ケアは主に、嚥下機能の成長を促すケアとして、
用手的に直接口腔内のマッサージをしたり、口周りや頬、首肩のマッサージをします。
歯ブラシでお口の中を刺激したり、ホイッスルや巻き笛を吹いたりと遊びもとりいれながらのケアをしています。
これらの行為を通して、子どもたちの心身の成長につながっていることを実感でき、喜びとなっていました。
また、年長児を対象に就学前の発達検査を行っており、
一部を私に任されることになって、「田中ビネー式発達検査」を担当しています。
検査中の子どもに対峙して関わることができるので、
検査中の様子から、その子がどのように生活していて、どんなことができているのか、
また、困っていることや苦しんでいることは何かも見えてきます。
さらに、その子にとってどんなアイデアが助けになるのかを考えることができるので、
私にとっての喜びになっているのです。
例えば、
自閉症の状態にある子どもに、何かを尋ねた際、
以前は黙ったままであったり、目をそらすことで応答していたのだが、
この発達検査中、その子は「なに?」とか「わからん」など、一生懸命に考えたり、
自分の思いを答えてくれるようになったのです。
すると、次第に言葉もでてくるようになって、その子の成長を感じることができて、
その子との「あいだ」で、感動を覚えるのです。
こどもたちから学んだこと
私は、医療技術短期大学部(1996年3月卒業)の学生の時の看護研究で、
院内保育園で実習させていただき、
「Nurse」とは、看病することのほかに、「保育する、養育する」という意味があることを知りました。
そこでの子どもたちとの関わりから、
「その子どもの目標に着眼し、相手の進みたい方向に保育する」大切さを学ぶことができました。
卒業後も学生時代の恩師と関わる機会があり、
私は相手を「かけがえのない存在として尊重すること」の大切さを知り、
看護を行うなかで心がけてきました。
また、最近では、
人はその「依りどころ」について、「とことこ」のある子どもから学ぶことができたので紹介したいと思います。
その子どもは、私を含めた職員や他の子どもをよく叩いていました。
そこで、私はある日、その子の来所中ずっと、その子の傍らにいさせて貰ってみました。
するとその子は「さみしかった」のだということがわかりました。
その日は、その子は叩くのではなく、“おんぶ”を求めてきました。
私は、「〇〇ちゃん、おんぶしようね」と、名前を呼び、言葉で伝えて“おんぶ”をしました。
すると、その子はとても安心したような表情になったのです。
私は、その子が他人の暖かい皮膚と自分の皮膚とが触れて、
自分の「依りどころ」を感じとることができたからではないかと思いました。
つまり、その子が自分の生きるエネルギーと喜びを生み出す「根源的ないのち」を感じたから、
良い表情になったのだと思いました。
この子との関わりから、学んだことをまとめておきたいと思います。
相手を叩くとか暴力を振るう人は、“さみしい” “悲しい” “つらい” などの自分の感情を「マイナスの皮膚感覚」として、
他者に与えることを通して、実は「暖かいプラスの皮膚感覚」を求めている。
何事であっても、相手としっかり関わることが大切である。
相手は、これまで他者から「愛される」とか「信じられる」という体験が無いか、少ないのかもしれない。
だから、相手に近づかせていただく、傍らに居させていただく、相手に向かいあわせていただくことから始める必要がある。
その時に、大切になることが、相手を「かけがえのない存在として尊重する」ことができるかどうかにかかっている。
看護、療育の道に希望を抱くことができたのはなぜか
美しい自然は誰に対しても、平等に感動をあたえてくれています。
私は、自然のように全てを平等視している能力があるのは、赤ちゃんではないかと思っています。
そして、とことこで働きはじめてから、「とことこ」に通う子どもたちは、自然のようにありのままに生きているように感じています。
だから、そこの気持ちに到らないと、彼らのことを理解できないのだと思うのです。
人間が自然のように生きることが難しいのは、自分に対する執着とものへの執着あるからで、
自然や赤ちゃんから「わけへだてなく与える」ことを学ぶ必要があります。
もし、この「こと」を学ぶことができれば、平等視できるのかも知れません。
お互いが「わけへだてなく」与える関わりをすることができれば、
例えば、学校、病院、家庭、他の組織なども、相互に援助し合う関係に成長するのではないかと思いました。
「とことこ」の療育は、看護の原点である。
そう、私は思うのです。
おわりに
私は現在、療育施設の「とことこ」で癒され、理解の芽が育まれているのを実感しています。
先に述べた、“おんぶ”を求めた子どもとのその後を述べておきたいと思います。
その子は、新たな行動「電気をつけてはたのしむ」ことを見出しました。
ところが、クラスの子どもが昼寝の時間になると、部屋の電気を消すと、その子は消しても消しても、つけて楽しむことを繰り返しました。
「電気をつけちゃダメだよ」という言葉はもはや耳に入らなくなって夢中になっているのです。
そこで、光が好きになったその子どものために、私は段ボールに小さな穴をいくつも開けてフィルムを貼ったものを用意しました。
その子は、その穴から光が漏れてきれいに見えるので喜んでくれました。
また、透明な容器にいろいろな色のマジックペンで★印などを描いて、太陽の光を通すと、
きれいな色や形が映る遊びをしてみました。
これもとても喜んでくれました。
私もだんだん嬉しさが増していきました。
さらに、100円ショップで見つけた電気のLEDライトをおもちゃのテントハウスの中に入れて暗くすると、
「あー!」という声を漏らして、嬉しそうに眺めて過ごしていました。
家でも星を見たり月を見たりするのを好んでいるそうでした。
そのうちそれらは広がって、
一緒にいろいろな星や月の絵を見たり、一緒にそれらを描いたりする行動までに発展していったのです。
その結果、いつの間にか部屋の電気をつけたり消したりする動作も減っていきました。
そして、その子は穏やかな表情で過ごすことができるようになりました。
子どもの成長は、相手を主役に一緒に遊んで新たなことを発見し、
一緒に学んで成長するものなのだなと感じる日々です。
この子どもとの関わりから、
相手と自分との「あいだ」の成長を高めるような応答ができることが大切であることがわかりました。
この応答は、言葉でないことが多いでしょう。
身体やこころ、あるいは、根源なる「いのち」にふれあって感じさせられることかもしれません。
そうして、相手が発する生き方を理解したり学んだりするのです。
相手を主体として関わることを忘れてはならない、と強く思う出来事でした。
最後に、私が療育を通して、看護に気づきをもたらした東田直樹 ²⁾さんの文章を示して終わりにしたいと思います。
「僕は、自閉症とはきっと、文明の支配を受けずに、自然のまま生まれてきた人たちなのだと思うのです。これは、僕の勝手な作り話ですが、人類は多くの命を殺し、地球を自分勝手に破壊してきました。人類自身がそのことに危機を感じ、自閉症の人たちをつくり出したのではないでしょうか。僕たちは、人が持っている外見上のものは全て持っているのにも拘わらず、みんなとは何もかも違います。まるで、太古の昔からタイムスリップしてきたような人間なのです。僕たちが存在するおかげで、世の中の人たちが、この地球にとっての大切な何かを思い出してくれたら、僕たちは何となく嬉しいのです。」
<引用文献>
西村ユミ著:『語りかける身体―看護ケアの現象学』、p.228. ゆみる出版、2001.
東田直樹著:『僕が飛び跳ねる理由』、 138 . KADOKAWA、2020.
<参考文献>
ミルトン・メイヤロフ著、田村真・向野宣之訳:『ケアの本質―生きることの意味』、ゆみる出版、1989.
横山紘一著:『十牛図入門―「新しい自分」への道』、幻冬社新書078、2017.
傳田光洋著:『賢い皮膚―思考する最大の(臓器)』、ちくま新書795、
寺本松野著:『看護のなかの死』、日本看護協会出版会、
パトリシア ベナー/ジュディス ルーベル著 難波卓志訳:現象学的人間論と看護、医学書院、2005.
東田直樹著:『自閉症の僕が跳びはねる理由2』、 KADOKAWA、2020.
中井久夫著:「つながり」の精神病理、筑摩書房、2014.
中井久夫著:「伝える」ことと「伝わる」こと、筑摩書房、2019.
フロレンス・ナイチンゲール著 湯槇ます・薄井坦子訳:看護覚え書、現代社、1992.
ヴアージニア・ヘンダーソン著 湯槇ます・小玉香津子訳:看護の基本となるもの、日本看護協会出版会、2006.
大段智亮著:面接の技法、メジカルフレンド社、1995.
木村敏著:あいだ、ちくま学芸文庫、2005.
ジョイス・トラベルビー著、長谷川浩、藤枝知子訳:人間対人間の看護、医学書院、2001.
エリザベス・キューブラロス著、鈴木晶訳:死ぬ瞬間―死とその過程について、中央公論新社、2001.
カール・ロジャース著、畠瀬稔監修、加藤久子・東口千津子訳:ロジャーズのカウンセリング(個人セラピー)の実際、コモスライブラリー、2007.
浦河べてるの家著:べてるの家の「非」援助論―そのままでいいと思えるための25章(シリーズケアをひらく)、医学書院、2002.
中井久夫著:こんなとき私はどうしてきたか、医学書院、2018.
西田幾多郎著:絶対矛盾的自己同一、青空文庫、2012.
西田幾多郎著:善の研究、岩波書店、1950.
加藤路瑛著:感覚過敏の僕が感じる世界、日本実業出版社、2022.
藤田美津子著:援助者達への花束、自費出版、
鈴木大拙著、工藤澄子訳:禅、筑摩書房、2017.